フォーサイト・シールズモデルズは戦艦・船舶を中心に歴史上で活躍した日本・日本人にスポットをあて
日本の歴史・誇り・こだわりの重要性を後世に伝えることを目的とした会社です。
日露戦争旗艦戦艦三笠・南極観測船宗谷をはじめ歴史を飾った船を模型として伝えます。




日本海軍三等巡洋艦 秋津洲  
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明治25年7月7日明治天皇行幸の下進水、我が海軍における防護巡洋艦国内建造の第一艦が秋津洲である。エミール・ベルダン造船大監は三景艦、八重山についで本艦の基本計画を完成させたが、これを批判、採用絶対反対したのは浪速と高千穂の監督官より帰国、畝傍について仏国設計に疑念を抱いていた、サー・エドワード・リードの弟子であった佐双佐仲造船大技監であった。
日露戦争時は第六戦隊(第3艦隊)旗艦として対馬海峡警備に就き、明治38年3-4月は津軽海峡、7-8月は樺太上陸作戦に従事した。黄海海戦時の艦長は雅子皇后の曽祖父山屋他人中佐、日本海海戦時の艦長は広瀬武夫中佐の兄である広瀬勝比古中佐であった。



秋津州四方山話


広瀬家の人々その1

広瀬勝比古日本海海戦時の艦長は広瀬武夫中佐の兄である広瀬勝比古中佐であった。

1862年9月20日(文久2年8月27日)豊後竹田の中川藩の下級武士の家系に生まれ、1883年(明治16年)10月、海軍兵学校(10期)を卒業し海軍少尉補となった。
1893年(明治26年)6月、「浪速」砲術長に転じ日清戦争に出征。「高陞号事件」にも関わった。
1903年(明治36年)12月、「大島」艦長となり日露戦争に出征。旅順攻略作戦に参加。
1904年(明治37年)5月18日、「大島」は旅順沖で哨戒活動中、濃霧の中で砲艦「赤城」に衝突され沈没した。勝比古は終世この事故のことを悔いていた。同月、「鳥海」艦長に移る。
1905年(明治38年)1月、「秋津洲」艦長に就任し、同月、海軍大佐に昇進。日本海海戦に参戦した。同年6月、「浪速」艦長に異動。
1905年8月に横須賀鎮守府付となり、1906年(明治39年)3月に休職した。同年9月から海軍大学校で選科学生として学んだ。
1907年(明治40年)10月、「富士」艦長に就任。「筑波」艦長を経て、1910年(明治43年)12月に待命。1911年(明治44年)4月、海軍少将に進級し、同年12月、予備役編入。1918年8月27日、後備役となる。

広瀬家の人々その2

広瀬末人勝比古の子供は娘一人であった為に婿養子を迎える事となった。
その婿養子である広瀬末人もまた海軍軍人であった。
大分県中津市出身、海軍兵学校39期、1914年12月1中尉任官、河内乗員1916年8月1日スループ大和(初代)乗員10月10日石見乗員。
1918年12月1日 大尉。
1919年10月18日 竹艤装員12月5日兼乗員25日竣工。
1921年12月1日 龍田水雷長。
1922年6月16日 兵学校教官兼監事。
1924年8月25日 水無月艦長。
1924年12月1日 少佐、薄艦長。
1927年6月20日 比良艦長。
1928年11月1日 野風艦長。
1929年11月30日 水雷学校教官。
1930年12月1日 中佐1931年12月1日天霧艦長。
1932年5月16日 第16駆逐隊司令。
1933年11月15日 第2駆逐隊司令。
1934年11月15日 第29駆逐隊司令。
1935年11月15日 大佐21日第6駆逐隊司令と長く水雷畑であったが、1936年12月1日夕張艦長。
1937年11月25日 青葉(1938年6月3-14日兼衣笠)艦長の艦上勤務の後1939年11月15日呉港務部長となりこの時に戦艦大和の進水式が行われた。
1940年11月15日 第2艦隊司令部付。
1941年1月15日 バリックパパン第2根拠地隊(1942年3月10日第22特別根拠地隊に改編)司令官となるが、この時の敵将兵に対する振る舞いにより戦後戦犯となる事を避ける事が出来た。
1941年10月15日 少将。
1942年11月15日 佐世保防備戦隊司令官。
1944年3月22日 第9特別根拠地隊司令官。
1945年5月1日 中将

1946年8月7日 予備役戦後、東郷神社第2代宮司となる。
1968年8月9日 死去(79歳)。
勝比古の墓所は青山霊園にあるが、弟の広瀬武夫のものと同じ場所に並んでいる。

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